友達を作れない病
数日前にぼくはこのような発言をしました。
今はもうやめたゴミみたいなバイト先の店長に「お前友達いねえだろ」っていわれたときに「友達なんかいねえよそもそも友達ってなんだよいってみろや」みたいな返しした時が僕の人生における一種のピークだった説ある
— へやきた (@heyakita) 2014, 1月 7
んでここで考えてみれば今現在「友達」と呼べるような人にどれだけあってきたのかと考えると正直怪しい部分が多量にあります。
小学生時代よりそれほど交友関係は広くなく、高校卒業の段階でそのときもっていたいわゆる現実世界における交友関係というものを全て断絶したに等しい状況になりました。
その後大学入学後もほぼ一切同学科の人と会話ができず結局2年弱会話をほぼできることなくという素晴らしいあれ。
いやはや自分でもすごいなって思いますね。ゴミだなほんと。
で、ここからが本題なんですが、なんで自分が友達と呼べるような存在を作れないのかってのを考えてみたんですよ。
んでとりあえず幾つか理由が出てきたんです。言動がアレすぎるっていうのを除いて。
今後追加されるかもしれませんがとりあえずこの4つ。
- 会話というものができない
- 人間関係の維持方法がよくわかっていない
- 人間関係に限らず突然に物事との関係を断ち切る傾向にある
- 友達というものがなにかわかっていない
以上4つについて考察でもしてみようかなと思います。
1.会話というものができない
まず思いつくのがこれ。
友人に限らず大体人のコミュニケーションっていうものは会話によって成立するものだと思ってます。
んでその会話というものが僕壊滅的にできません。
何故かと言うとおそらくこの3つが理由と思われます。
- 人の話を聞けない
- 自分の中で会話の会話が行われている
- 相手の話題を理解できない
人の話が聞けないというのは、根本的に注意散漫という物もありますが単純に耳が悪いせいで音が耳に届いてくれないというものもあります。
ちょっと騒音があると全く人の話してる言葉が聞き取れなくなるといった感じです。
軽い感音性難聴みたいな感じと思ってもらえば大体あってると思います。診断は受けてないので多分感音性難聴ではないとは思うのですが。
2つ目の自分の中で会話の会話が行われている というのはどういうことかというと
例えば
A「△△ってあるじゃんかー」
へや頭の中(△△かー□□と比較した時に□□のほうがよかったなー あ、○○のほうがいいやん?)
へや「そうだねー□□と○○くらべたら○○のほうがおもしろいよねー」
A「は?」
へや「は?」
みたいな。
要するに自分の思考というものを明示しながら話していかないと会話が成立しないタイプの輩なんです。
そのため人にもの教えるときは自分の思考をダダ漏らしにしてるのでわりかしわかりやすいとは言われてるような気がします。気がするだけ。
3つ目の人の話題が理解できないっていうのは単純に流行というものに疎いということです。
現在僕の回りで流行っていることがそもそも何なのかよくわかっていません。
一時期はパズドラとパチスロだったんですけれど今はろくに会話もしてないせいで何がなんやら。
ネット上で飛び交う会話についても僕が理解していない部分のものが結構多く自分からそれを知ろうという気も起きないために全く会話として成立しないものが発生しやすくなるというものです。
2.人間関係の維持方法がよくわかっていない
これは1.3.にも関わってくることなのですが、友達とはどういうものでどういうことで維持していくものなのかがさっぱりわかっていないというやつです。
Twitter上においてはReplyなどのmentionやFavoriteなどでフォロワーとの交友関係を維持していくのはさほど難しくないと思っています。
一方で現実世界における交友関係というものは難儀なもので根本的にまず遭遇しないというのが大半のものであり、遭遇しないがゆえに突如遭遇した時にどうすればいいのかがわからないという状態になってしまいます。
いわゆる「知り合いを見つけた時にとっさに逃げる」タイプのアレです。何をどうすればいいのかさっぱりわからんのです。
そうして交流というものができないうちに大体の関係が破綻していくというわかりやすい流れをたどってしまうのです。
かといってLINEやメールを用いた交流というものもしていない(そもそもLINEはやっていないしメールは企業からのものからしかこない!)のでなおさらその傾向が強まるわけであります。
そもそも人のメールアドレスとかここ2年ほど聞いた記憶がねえ!!
3.人間関係に限らず突然に物事との関係を断ち切る傾向にある
今まで僕はいろんなものに触れてきたと思っています。遊戯王やDMといったカードゲーム、jubeat、pop'nといった音ゲー、4コマやアニメ視聴……そのいずれもどこか変なタイミングでぷっつりとやらなくなっているのです。
この記事を読んでいる人の中にはもしかしたら「ある日を境にめっきりこいつからリプライこなくなったな」と思っている方もいるかもしれません。
同様のことなのです。何故か、僕の中でいきなりぷっつりと興味がなくなってしまうのです。たとえそれが毎日のように会話をしていた人であっても、特に喧嘩をしたわけでもないのに。
前文でも高校卒業時に不意に交友関係ほぼ全部断絶してますとあるように隙はないですよ。
そのために仮に友達と呼べる存在ができたとしても不意にその関係を断ち切ってしまうのではないか、と推測しています。
4.友達というものがなにかわかっていない
最後に一番重要とおぼわしきものをば。
結論としては友達の定性的定量的定義がよくわからないって話
— へやきた (@heyakita) 2014, 1月 7
世界には人間関係を表す単語として「知り合い」「友人」「仲良し」などがあるのはご存知だと思います。
一般大衆の人にとってこれらの区別というものはおそらく容易なものなのでしょうが僕にはさっぱりその違いがわからないのです。
どういう段階をもって知り合いが知人、仲良し、友達にランクアップしていくのか、その工程、儀式がさっぱり不明なのです。
そういう点においてたとえ「友達」と回りが呼称してくる人がいても僕の中ではその人を「友達である」と認識できていない、というものが考えられます。
参考となる発言として今は鍵垢になってる方の過去の発言があったので申し訳ないんですが引用させてもらいます。
@大学生 「友達」とは、家に泊りにいって夜通し遊んだり、二週間ぐらいの旅に一緒に行ったりするレベルの物で、「二限が一緒だから、そのあと学食でメシを食う」程度のは、単なる「知人」です。
この認識によるならば数回僕はフォロワーの方の家に泊まってずっとボードゲームなりなんなりしていたことはあるのでその人達は友達といえるのかもしれません。
しかしながら僕の印象では彼らはあくまでフォロワーでしかなく、日常的なやりとりはほぼしていないも同然なんですよね。
これを僕は友達とよべない、ただのフォロワーであるとしか認識できていません。
他にも「あくまで同じ学科の人」「同じ高校を出た人」「よく行くゲーセンによくいる人」などなど……自分から友達であるということを拒絶するかのレベルで友達であるという事象にNOをつきつけているような気がします。
おそらく今後とも、僕が友達、親友、はたまた恋人という概念をもった他人を自分のそばに置くことは相当難易度が高いことであると自負はしています。
そんなので今後この世界を生きていくことができるかときかれればおそらくNOでしょうけれどその時はその時で死んでしまうだけなのでそれはそれでいいのかなーとふと思いました。
あ、でもボードゲームする相手はほしい。(あくまで友達とは言わない、言えない。)